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採用情報

当社はスタートアップ企業です。しかし、だからこそ得られる経験や成長があるのだと思います。
​そして同時にあなた自身も我が社やその体制づくり、新規事業の開発に影響を持つことになるのです。
営業職、社内での事業設計、アルバイト、インターンシップなど、様々な形態で募集しています。
株式会社MICHIHIRA
代表取締役
池端 裕司
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プロ野球選手になりたかった

私は小学生時代から野球大好き少年だった。秋田県能代市に育ち、高校時代にはそれまでの夢だった甲子園に出場し、神宮球場で試合をしたいという思いから立正大学に進学した。当時の私の回りには、後のプロ野球選手も何人かいる。中でもメジャーリーガーとして活躍した黒田博樹選手と試合をしたことが将来を左右するきっかけになった。単純に「届かない」と気づかされた。当時、野球一筋で生きてきた自分には、それが骨の髄まで響くものだったし、その歴然としたレベルの違いに愕然とした。

漠然とプロ野球選手になりたいと始めた野球だったが、大学生になるまでには、それなりの時間と努力を費やした夢や気持ちがあった。そうしたすべてをひっくるめて、未来への道筋を切り替えるのには時間がかかった。ひとしきりぽっかり空いた穴を埋めるために、時間をただ浪費する日々を送った。そして、それほど大きな覚悟もなく、大学四年生の時に行政書士の資格試験を受けようと法学部に学部を変えた。

やはり、流されるように決めた目標だったせいか試験は不合格となり、卒業を迎えホテルのフロントマンとして働くことにした。ユーザーと直接会える環境の仕事に就きたいと、サービス業を選んだが、実際は、ただただ「合わないな」と感じながら働く日々だった。

そこで、友人のつてを頼りに転機が訪れる。

人見知りからスタートした営業としてのキャリア

野球一筋で生きてきて自分が身につけてきたものは「体力」と「我慢強さ」。それはまさに体育会系を体現したような若者だったように思う。現代社会では敬遠されることも多い気質。断っておくが、自分自身がそういった環境で育ったからこそ、自分の持つ非効率な部分まで他人に押し付ける気はない。その気はないが、当時の自分はそれしか知らなかったのだ。

そんな体育会系の若者に、大学を通じて新たに紹介してもらったのが営業職だった。採用期間は終わってしまっていたが、体育会系で育った人材ならと面談に漕ぎ着けたのだ。そこは工具や測定器を扱う会社で、横浜を担当する営業として働き始めた。人見知りだった自分をよく採用してくれたものだと未だに思う。私は取引先との懇親会で「無言の新人」として着座していた。周りから声がかけられれば反応はするが、自分から話を切り出せず、本当に席の間中、一言も発することなく座っていた。反抗や反発でなく、人見知りの自分にはそれしかできなかった。かと言って地獄のような日々かと聞かれれば、決してそうではなかった。現代社会ではコミュ障などと言われる側の自分だったが、何も知らない自分を、当時の販売店の方々は本当によく面倒を見てくれたからだ。自社の製品と取引先の方々を覚えて、ひたすらに回るルート営業の日々だったが、数字は伸びていった。インターネットが普及する以前の商社や販売業は、愚直さや泥臭さが当たり前の業界でもあった。こうしたひたむきな姿勢とその時にいただいた激励が、確実に今につながっていると思う。

いつしかチャレンジそのものが原動力に

販売店を対象とした営業マンとして数年が過ぎ、毎日が同じ繰り返しになりつつあった。そんな中で、いつしか直接エンドユーザーにヒアリングした上で、各現場(工場の作業)にフィットしたものを売りたいと思うようになった。

そんな時、イスラエルから切削工具を輸入している商社からお誘いがあった。それらの技術はとてもニッチだったが、その分オンリーワンの技術があり、おもしろいものが多くあった。それだけに、ボーイングなど航空産業に使われる製品もあった。日々が繰り返しになりつつあった私には、ちょうど新しいことにチャレンジできるチャンスだと思い、一念発起して転職を図った。スマートフォンやLINEの存在していない時代に、ヘブライ語で海外の企業と会議をするような貿易会社に入ったのである。もちろん、ヘブライ語どころか英語もままならない私は、文字通り「体当たり」以外にできることはなかった。持ち前の体当たり精神で数々の壁を破りながら、新しいものを切り開いていくチャレンジが自分の原動力になっていることに気づいた。

奇しくも小学校の卒業時に書いた将来の夢にはプロ野球選手、貿易の仕事、公務員として書かれていた。

どこかで幼少期からの貿易への憧れがあったのかと驚きながら、いつの間にかなりたかった職業に就いている自分がいた。その後、会社がM&Aによってアメリカ資本に吸収されるなど紆余曲折あり、自分の会社を立ち上げることになっていくのである。

独立当時、気づけば40歳になっていた。すでに家族があり、社会的には安定しなくてはならないという風潮が強い中、これ以上、自分のやってみたいことに邁進していくことに身勝手さを感じ葛藤した。それでも新しい道へと歩を進められたのは、チャレンジすることが原動力になり、それが新しい環境をつくることを経験してきたからかもしれない。

イスラエルとの貿易の経験を得ていた自分は単身中国に乗り込み、鉱山資源を持つ国営企業との交渉を行い、今のGESAC輸入販売へと漕ぎ着き、現在のミチヒラ起業へと続いていった。

ミチヒラという会社名はそのまま道を開く(拓く)ことから名付けている。それは、チャレンジし、開拓することそのものが原動力であり続けてきた自分自身の姿であり、硬直化しつつある日本のモノづくり分野において、自ら市場を切り開くことで、日本とそれ以外という視点でなく、アジア圏として市場を捉えるグローバルな視点から、少しでも発展に寄与したいという思いから名付けたものだ。

ミチヒラはスタートアップ企業であり、今から販売店を開拓し、日本に流通を起こし、モノづくりの業界をサポートする。

採用種別
求める人材像
  • 日本国内、海外含めてモノづくりの現場を渡り歩く情熱を持った方。

 →【たくさんの取引先に喜んでもらえるやり甲斐を得られます】

  • 新しい商品を新しいお客様に届けようと、創意工夫できる方。

 →【ルーチンワークから解放され、自身のクリエイティブが評価につながります】

  • 経営者の右腕人材として、会社内の仕組みづくりを考えられる方。

 →【スタートアップ企業から新しいフェーズに向かう貴重な経験が得られます】

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